退職の意思を伝えた翌日、上長から「昇給80万円、来期はマネージャーに昇格」と条件を提示されたら、心が揺れない人の方が少ないはずです。厄介なのは、引き止めの条件が魅力的であればあるほど、それまで固めてきたはずの決断が一瞬で揺らいでしまう点です。
私の肌感覚では、退職を伝えた社員のうち何らかの形で引き止めを受ける人は3割前後、そのうち実際に残留を選ぶ人はさらにその半分程度という印象があります。今回のCさんも、まさにこの「好条件の引き止め」で3日間揺れ動いた一人でした。
今回は、次の3つの判断基準に沿ってご紹介します。
- その条件は「辞める」と伝える前から検討されていたもので、発令時期や書面が示せるほど具体的か
- その条件は自分の不満の根本原因に手を入れる話になっているか
- なぜ会社は「辞めると言われて初めて」その条件を出せたのか
目次
上長からの「昇給80万円・昇格」提示、Cさんの身に起きたこと
相談者のCさんは、Web制作会社でディレクターをしている30代後半の方でした。内定を承諾し、退職の意向を上長に伝えたときのやり取りを、後日Cさんに詳しく聞かせてもらいました。上長は最初、「え、他に何かいい話でもあったの」と軽い調子で聞いてきたそうです。Cさんが内定先の社名は伏せつつも具体的な条件を伝えると、その場の空気が明らかに変わり、「ちょっと待って、一旦持ち帰らせてほしい」と言われてその日は終わったといいます。
翌日改めて呼び出された面談で提示されたのが、「年収を80万円上げる」「来期からマネージャーに昇格させる」という条件でした。
Cさんから私に連絡が来たのは、その面談があった日の夜です。「正直、心が揺れています。昨日まではすっきり退職を伝えられたつもりだったのに、今日の面談で全部ぐらついてしまいました」という一文から相談は始まりました。電話で話すと、声のトーンからも疲れが伝わってきて、「家族にも今日のことを話したら、上がるならそのままいてもいいんじゃないの、と言われて余計に分からなくなりました」とも話していました。
引き止めの条件を見極める3つのチェックポイント
こういう相談を受けたとき、私がいつも最初に確認するのは、その条件が退職を切り出す前から検討されていたものなのか、それとも意思を伝えた後に急に出てきたものなのか、という点です。
Cさんの場合は後者で、上長本人が「引き止めるために、昨日のうちに人事に掛け合った」とはっきり話していました。ここで読者の方に確認してほしいチェックポイントは三つあります。
- その条件は「辞める」と伝える前から検討されていたもので、発令時期や書面が示せるほど具体的か
- その条件は自分の不満の根本原因に手を入れる話になっているか
- なぜ会社は「辞めると言われて初めて」その条件を出せたのか
① その条件は「辞めると言う前」から検討されていたか
その条件が意思を伝える前から検討されていたもので、発令時期や書面が示せるほど具体的かどうかです。私はCさんに、「昇給や昇格の話を、辞令や覚書のような形でもらえそうか、一度聞いてみてください」と伝えました。
実際にCさんが上長にその点を尋ねたところ、「口約束で十分だろう、書面にするような話じゃない」と言葉を濁されたそうです。この反応こそが、条件がどれだけ本気で用意されたものかを測る一つの材料になります。
私が過去に担当した別の相談者では、引き止めで提示された昇格が「来期の予算会議次第」という理由で半年先送りにされ、結局そのまま立ち消えになった例もありました。書面での辞令や具体的な発令時期が示されない限り、口頭の約束はどこまでいっても口頭の約束だという前提で聞くくらいがちょうどいいと思っています。
では、実際に何を書面で残してもらえばいいのか。私がCさんに伝えたのは次の3点です。
- 昇給額と反映時期(次の給与改定サイクルか、それとも今回だけ特別に即時反映か)を明記した書面
- 昇格であれば、辞令の発令日と新しい役職名が入った文書
- 面談で口頭提示された内容は、その日のうちに自分からメールで要約し「認識に誤りがないか確認させてください」と返信をもらう形にする
Cさんも実際にこの3点目を試しています。面談の翌日、上長宛に提示内容を箇条書きで要約したメールを送り、返信で確認を取ろうとしました。ところが返ってきたのは「大筋その通りです、詳細は追って人事から」という一文だけで、昇給額の反映時期も昇格の発令日も、結局最後まで文書として示されませんでした。この「詳細は追って」がそのまま流れていく感触自体が、Cさんにとっては条件の本気度を測る材料の一つになったといいます。
② 提示された条件は、不満の「根本」に届いているか
その条件が自分の不満の根本原因に手を入れる話になっているかどうかです。Cさんの転職理由は年収だけでなく、「意思決定に関われないまま制作進行だけを任され続けること」への不満が大きな比重を占めていました。
ここで読者の方に当てはめてほしい問いは、「その条件は、自分が不満だと感じている業務内容や人間関係、裁量の構造そのものに手を入れる話になっているか」です。肩書きや金額が変わるだけで、日々の仕事の中身が変わらないのであれば、数か月後に同じ不満へ逆戻りする可能性が高いというのが私の実感です。
Cさんと一緒に、社内で既にマネージャー職に就いている先輩社員のケースを掘り下げてみたところ、その先輩は結局のところ上長の指示を現場に伝える中間管理職の立場に留まっており、企画や予算の意思決定にはほとんど関わっていないことが分かりました。加えて、その先輩が兼務しているのは進行管理と労務管理がほとんどで、Cさんが不満に感じていた「クライアントとの企画段階から関われない」という構造自体は昇格後も変わっていませんでした。
Cさんはその話を整理しながら、「昇格しても、たぶん構造は変わらない気がします」と自分の言葉でぽつりと言っていたのが印象に残っています。
実際に厚生労働省の令和6年雇用動向調査(転職入職者が前職を辞めた理由別割合、表5)を確認すると、女性は「労働時間、休日等の労働条件が悪かった」12.8%が「その他の個人的理由」を除くと最も高く、「職場の人間関係が好ましくなかった」11.7%、「給料等収入が少なかった」8.3%と続きます。男性は、個人的理由の具体的な項目の中では「給料等収入が少なかった」10.1%がわずかに最多ですが、「人間関係」9.0%、「労働条件」8.6%とほぼ横並びです(厚生労働省「令和6年雇用動向調査結果の概要」表5)。
給料が上がっても、労働条件や人間関係への不満は別枠で残る——Cさんの不満の構造は、この数字とも重なります。余談ですが、30代後半(35〜39歳)の男性だけに絞ると「労働条件が悪かった」13.5%が「給料」11.8%を上回り、給料より労働条件を理由に辞める人の方が多い年代でもあります。
③ 一時しのぎの欠員対応か、本気の評価見直しか
なぜ会社が「辞めると言われて初めて」その条件を出せたのか、という背景です。人手不足で目先の欠員を埋めたいだけなのか、それともCさんの評価自体を会社が本気で見直したのかは、似ているようでまったく違う話です。
Cさんの会社は、その時期ちょうど中途採用の応募が減っていて、現場からは「今ディレクターが抜けると案件が回らない」という声が上がっていたそうです。つまり引き止めの動機は、Cさんの評価というより人員体制の穴を埋める必要性から来ている可能性が高いと私は見ていました。
見分け方として私がよく使うのは、「その条件は、もし今ではなく半年前に自分から交渉していても通っていたと思うか」という質問です。Cさんに聞いてみると、「多分、半年前に言っても『来期考えるよ』で終わっていたと思います」という答えが返ってきました。これは、条件が本人の評価に基づくものというより、退職というタイミングの圧力によって引き出されたものである可能性を裏づけています。
この見極めに関連して、意外と見落とされがちなのが、引き止める上長自身の評価が絡んでいるケースです。マネジメント層の評価項目に離職率や欠員補充のコストが入っている会社では、部下に辞められること自体が上長個人の評価を下げる要因になります。
Cさんの上長も、以前別の部署でディレクターが立て続けに辞めた時期があり、その頃「あの部署は人員計画が甘い」と社内でささやかれていたらしいと、Cさんは風の噂で聞いたことがあるそうです。そう考えると、今回の引き止めが「Cさんを高く評価しているから」ではなく、「上長自身が欠員を出したくないから」という動機で動いていた可能性は十分にあります。
もちろんそれ自体が悪いわけではありませんが、誰のための引き止めなのかを冷静に見極める材料にはなります。人手不足のタイミングで一時的にしのぐための引き止めだった場合、繁忙期を越えたり後任の採用が決まったりした途端に、当初の熱量が急に冷めていくケースを何度も見てきました。
保留期間の使い方と、内定先への伝え方
三つのチェックポイントを一通り整理したところで、Cさんと話し合ったのが「保留期間の使い方」です。引き止めを受けた直後は動揺していて即決してしまいがちですが、Cさんには「今日中に返事をする必要はないはずなので、2〜3日考えさせてほしいと伝えてみましょう」と提案しました。
もう一つ、保留期間中に知っておいてほしい一般的な法律論があります。退職の意思表示は、会社側がいったん承諾してしまうと、あとから本人の意向だけで撤回するのが難しくなる場合があるという点です。
Cさんの場合は、会社が退職を受け入れる前に引き止めの話が出てきたうえ、最終的に退職を選んだので問題にはなりませんでした。ただ、もし残留に傾いていたら、上長や人事がすでに後任の手配を進めていないかは確かめておく必要がありました。退職を切り出すタイミングや引き継ぎとの兼ね合いといった法的な論点は在職中の転職活動、有給消化と引き継ぎでつまずく3つの壁で詳しく扱っているので、保留期間に入る前に一度目を通しておくと安心です。
同時に気になるのが、内定先にこの状況をどう伝えるかです。私がCさんに勧めたのは、次のようなシンプルな対応でした。
- 現職から引き止めを受けている事実を隠さない
- 「少し考える時間をいただきたい」と正直に伝える
- 慌てて連絡を絶ったり、何も言わず入社日だけを先延ばしにしたりしない
ここで対応を誤ると、内定先の心証を損ねてしまいます。
実際にCさんが内定先の人事担当に連絡したところ、「よくあることなので大丈夫です、正式な返事は今週中で構いません」という返答があったそうです。この対応の誠実さも、Cさんにとって最終判断の材料の一つになったと話していました。引き止めへの対応にばかり気を取られて、内定先との信頼関係を後回しにしてしまう人は意外と多いものです。
なお、保留の連絡と併せて、社内の同僚に相談内容が広まらないよう配慮したことも、Cさんが落ち着いて考える時間を確保できた要因の一つでした。
残留を選んだ人たちのその後に見えるパターン
引き止めに応じて残った人のその後には、いくつかのパターンがあります。一番多いのが、昇給や昇格そのものは実行されたものの、業務内容や職場の力学が変わらず、半年から1年ほどでまた同じ不満が再燃するパターンで、私の体感では引き止めに応じて残留した人のうち半数近くがここに当てはまります。
二番目に多いのが、実際に待遇改善が継続し、本人も納得して長く働き続けているパターンで、これは少数ですが確実に存在します。共通しているのは、引き止めの条件が「不満の根本原因」に触れていたかどうかで、後者に当てはまる人はたいてい業務の裁量や人間関係まで含めて話し合いが行われていました。
あまり語られませんが、もう一つ気をつけたいパターンがあります。一度辞めると言った社員に対して、会社側が無意識に「いつかまた辞めるかもしれない人」という目で見るようになり、重要な案件を任せてもらいにくくなるという声も複数の相談者から聞いています。
ある相談者は、引き止めに応じて残留した半年後、大型案件のアサインで自分だけ外され、後で同僚から「一度辞めかけた人には任せづらいという話が出ていた」と聞かされたそうです。
ポイント: 引き止めに応じるということは、単に条件面の話だけでなく、社内での見られ方が変わるリスクも含んだ選択です。頭の片隅に置いておいた方がいいと思います。
転職を選んだ人たちのその後
一方で転職を選んだ人のその後についても触れておきます。多くの場合、環境や業務内容が変わったことで満足度が上がり、「もっと早く動けばよかった」という感想を持つ人がほとんどです。
ただし、ごくまれに、内定先の実態が想定と違っていて、入社後に苦労するケースもあります。これは引き止めとは別の話で、内定を承諾する前の企業研究や条件確認をどれだけ丁寧にできていたかによるところが大きく、引き止めに揺らがなかったこと自体を後悔する人にはほとんど会ったことがありません。
むしろ多くの人が、引き止めの場面で改めて自分の不満を言語化できたことで、転職後の働き方に対する軸がはっきりしたと話してくれます。
Cさんが書き出した3つの項目、そして下した結論
保留期間の間、Cさんは実際にノートに三つの項目を書き出していました。一つ目の「事前検討の有無」には、上長が退職を聞いた後に人事へ掛け合ったこと、書面化を渋られたことを記入。二つ目の「不満解消につながるか」には、先輩社員の例を挙げて「昇格しても企画段階に関われる保証はない」と記入。三つ目の「一時しのぎか本気の評価見直しか」には、中途採用の応募減少という会社側の事情と、半年前なら通らなかっただろうという自己分析を記入していました。
三つとも埋めてみると、条件の見た目の魅力に反して、どの項目も「弱い」側に寄っていることが一目で分かったといいます。数字だけを見ていたときは迷いが消えなかったのに、こうして書き出した途端に気持ちが定まった、とCさんは振り返っていました。
Cさんは3日間悩んだ末、最終的に内定先への入社を選びました。決め手になったのは、昇給額や肩書きではなく、「上長から出てきた条件の中に、自分が不満だった業務の進め方を変える話が一つも含まれていなかった」ことだったそうです。
上長への最終的な返事の場面でも、Cさんは感情的にならず、「今回の話はありがたかったですが、自分がやりたい仕事の中身自体は変わらないと思うので」と伝えたと話していました。上長からは「金額の問題じゃないんだね」と静かに聞き返されたそうですが、Cさんは言葉を選びながらも「はい、金額よりも仕事の中身の問題です」とはっきり答えたといいます。それ以上の食い下がりはなく、上長は「分かった、じゃあ引き継ぎの相談をしよう」とだけ答えて面談は終わったそうです。角が立たない伝え方を意識したことで、退職までの引き継ぎ期間も比較的落ち着いた雰囲気で進んだそうです。
よくある質問
引き止めを受けたこと自体、内定先に不利に働きますか。 私が見てきた限り、正直に「少し考える時間が欲しい」と伝えた候補者が、そのことを理由に内定を取り消されたケースには出会っていません。Cさんの内定先も「よくあることなので大丈夫です」と即答していますし、引き止めを受ける状況自体は転職市場ではよくあることとして企業側も理解しています。むしろ状況を隠して連絡を絶ったり、何も言わず入社日だけを先延ばしにしたりする方が、内定先の心証を損ねます。
一度は残留を検討したことは、社内で悪印象になりますか。 Cさんのように、提示された条件をきちんと検討したうえで断ったケースで、悪印象につながったという話は聞きません。むしろ「その場で即答せず、一度持ち帰って考えた」という姿勢は、感情的な決別ではなく筋の通った判断として伝わりやすいと感じます。悪印象になりやすいのは、条件に揺れている態度をそのまま職場で見せ続けてしまうケースの方で、保留期間中の振る舞い方次第で周囲の見方は変わってきます。
まとめ:金額の大きさより「不満の根本に効くか」で判断する
退職を伝えた後の引き止めは、条件だけを見ると好条件に見えることが多いものです。ですが、その条件が転職を考えた根本の理由に答えているかどうかを切り分けて考えると、判断はずっとしやすくなります。
ポイント: 引き止めの条件を見極める3つのチェックポイント
- 事前検討の有無(辞める前から具体的に検討されていたか)
- 不満解消につながるか(業務内容や裁量の構造そのものが変わるか)
- 一時しのぎか本気の評価見直しか(辞めると言われて初めて出た条件ではないか)
もし今まさに引き止めの渦中にいる方がいたら、金額や肩書きに気持ちを持っていかれる前に、Cさんがやったようにこの三つを紙に書き出してみてください。頭の中だけで比較しようとすると条件の大きさに気持ちが引っ張られますが、文字にして並べてみれば、自分が本当に見るべき部分が見えてきます。




