「同年代の他社エンジニアと比べて、自分の年収は低いのではないか」——そんな漠然とした不安を抱えて相談にいらっしゃったのが、IT業界でエンジニアとして働くAさん(30代前半)でした。現職での年収は480万円。決して悪い数字ではありませんが、Aさん自身、それが市場相場に照らして妥当なのかを一度も検証したことがなかったといいます。
私はこれまで800名以上の転職支援に携わってきましたが、「今の年収が適正かどうか分からないまま、なんとなく不安だけを抱えている」というケースは決して珍しくありません。実際にスキルや経験を棚卸ししてみると、本人が思っている以上に市場価値が高いことは多く、Aさんもまさにそのタイプでした。今回は、Aさんが棚卸しと面接練習を通じて自分の市場価値に気づき、480万円から620万円のオファーを引き出すまでの過程を、具体的なやり取りとともにご紹介します。
今回は、Aさんが年収480万円から620万円のオファーを獲得するまでに取り組んだ、次の2つのプロセスに沿ってご紹介します。
- スキル・経験を棚卸しして、市場相場のレンジを把握する
- 面接で実績を「具体的な数字」で語れるように練習する
目次
Aさんの相談内容、「なんとなく年収が低い気がする」という不安
Aさんは新卒からずっと同じIT企業に勤め、システム開発の実務を積み重ねてきた方でした。転職活動の経験は一度もなく、自分のスキルが社外でどう評価されるのかを知る機会がこれまでなかったといいます。
相談の最初にAさんが口にしたのは、「同期で他社に転職した友人が年収600万円をもらっていると聞いて、急に不安になった」という一言でした。ただし、その友人と自分の経験やスキルを具体的に比較したわけではなく、あくまで人づてに聞いた数字だけが独り歩きしている状態でした。
こうした「他人の年収と自分を漠然と比べて不安になる」相談は、私のもとにもよく寄せられます。ただ、比較の軸が「噂話」や「求人票の年収レンジ」だけだと、判断を誤りやすくなります。大切なのは、自分自身の経験を市場相場に照らして具体的に評価し直すことです。
Aさんに「自分の市場価値を自己採点するなら100点満点で何点だと思いますか」と聞いてみたところ、返ってきたのは「50点くらいだと思います、特別なことは何もしていないので」という答えでした。この時点でのAさんは、自分の経験を語る言葉をまだ持っていない状態だったと言えます。
もう少し話を聞いていくと、Aさんの不安には別の理由も重なっていました。社内では上司や同僚から「安定して仕事を回してくれる存在」として重宝されていたものの、それは評価面談での言葉にはほとんど反映されておらず、直近3年の昇給額は年平均で1万円台にとどまっていたそうです。「頑張りが評価に結びついている実感がないまま、なんとなく居心地の悪さだけが積み重なっていた」というのが、Aさんが転職を考え始めた本当のきっかけでした。年収の数字そのものより、この「評価されている実感の薄さ」が不安の土台になっているケースは、私が担当する相談の中でも意外と多いパターンです。
Aさんは相談に来る前、無料の年収診断ツールを一度試したことがあるとも話していました。ただ、出てきた結果は「500万円〜650万円」という幅の広いレンジで、「結局、自分がこの中のどこに位置するのか分からないままでした」とのことでした。診断ツールやスカウトサービスは、ざっくりとした相場観をつかむ入り口としては便利ですが、自分の経験のどの部分がその金額を裏付けているのかまでは教えてくれません。Aさんに必要だったのは、レンジの数字そのものより、その数字の根拠を自分の言葉で説明できるようになることでした。
実際、これまで担当してきた相談者を振り返ると、初回の面談に来られる方の半数以上が、自分の市場価値を「友人との会話」や「求人サイトのなんとなくの相場観」だけで判断しています。診断ツールの結果や求人票のレンジを見て一喜一憂する前に、まず自分の経験を数字と事実で棚卸しする、という順番を踏んでいる方は、私の体感ではむしろ少数派です。
市場価値を可視化する、スキル・経験の棚卸し
Aさんとまず取り組んだのは、これまで担当してきたプロジェクトの規模、使用技術、マネジメント経験の有無を一つひとつ書き出す作業でした。棚卸しの視点は、次の3つです。
- 担当したプロジェクトの規模(人数・予算・期間)
- 使用してきた技術スタックと、その市場での需要
- 後輩指導やチームリードなど、マネジメント経験の有無
棚卸しシートに向き合ったAさんの戸惑い
実際にシートを渡すと、Aさんの手はしばらく止まったままでした。「担当したプロジェクトの規模と言われても、人数も予算も正確には覚えていないんです」というのが最初の反応です。私が「直近1年で一番大きかった案件だと、何人くらいのチームでしたか」と聞き直すと、「10人くらい……いや、途中で他チームも合流したので、15人はいたかもしれません」と、記憶を辿りながら少しずつ数字が出てきました。
正確な数字がすぐに出てこないのは、Aさんに限った話ではありません。私はこういうとき、「当時のプロジェクト管理ツールやSlackの履歴を見返してみてください」と提案しています。Aさんも自分のカレンダーとチャットのログを掘り返してみたところ、担当していたプロジェクトの正式な体制表が残っていて、そこには「サブリーダー」という肩書きと、関わったメンバーの人数がはっきり記載されていました。
「当たり前」だと思っていたことが、実は市場価値だった
書き出してみると、Aさんは大規模プロジェクトのサブリーダーを2年間務めた経験があり、複数の技術領域を横断して担当してきたことが分かりました。これは、Aさんが「当たり前にやってきたこと」として、自分では実績だと認識していなかったものです。
特に印象的だったのは、後輩の指導に関する項目でした。Aさんは最初「後輩指導はほとんどしていません、ただ隣の席で聞かれたことに答えていただけです」と答えていました。ただ、具体的に聞いていくと、新人が配属されるたびにオンボーディング資料を整備し、直近2年間で3人の新人教育を実質的に一人で担当していたことが分かりました。Aさんにとっては「聞かれたら答えるだけ」の日常業務でも、体制表の上ではAさんが教育担当として明記されていたのです。
「これって、そんなに珍しいことなんですか」とAさんに聞かれたとき、私は「同じ経験年数のエンジニアで、複数人の新人教育を継続的に任されている人はそう多くありません」と伝えました。Aさんは少し驚いた様子で、「ずっと、誰でもできることをやっているだけだと思っていました」と話していたのが印象に残っています。
技術スタックの希少性にも気づいていなかった
2つ目の視点である技術スタックの棚卸しでも、似たようなやり取りがありました。Aさんは「特に新しい技術には詳しくないので、書くことがあまりないです」と最初は控えめでしたが、担当してきたシステムを時系列で並べてもらうと、レガシーなオンプレミス環境で動いていた基幹システムを、この2年でクラウド環境へ段階的に移行するプロジェクトに深く関わっていたことが分かりました。
Aさん自身は「上から降ってきた移行作業を、言われた範囲でこなしていただけです」と振り返っていましたが、具体的な担当範囲を聞いていくと、旧システムの仕様を読み解きながら移行手順を設計し、複数のサーバーを段階的に切り替える作業を主導していたことが見えてきました。レガシーシステムの仕様を理解できる人材と、クラウド環境の構築経験を両方持つ人材は、求人市場でも重なりが少ないという話をすると、「そんなふうに考えたことは一度もありませんでした」とAさんは驚いていました。
30代前半エンジニアの平均年収と照らし合わせる
棚卸しの結果を、客観的な年収データとも突き合わせてみました。令和4年賃金構造基本統計調査をもとにした集計では、システムエンジニアの平均年収は年代によって次のように差があります(年齢階級別の直近データは確認できなかったため、あくまで令和4年時点の参考値です)。
| 年代 | 平均年収の目安 |
|---|---|
| 20代後半 | 約514万円 |
| 30代前半 | 約647万円 |
| 30代後半 | 約730万円 |
(出典:テックストックMAGAZINE「システムエンジニア(SE)の平均年収は?年代・企業規模別」)
Aさんの当時の年収480万円は、30代前半の平均647万円と比べると167万円ほど低い水準でした。もちろんこの平均値は企業規模や地域を問わずならした数字なので、これを下回っているからといって即座に「損をしている」と決めつけるのは早計です。ただ、Aさんが積み上げてきたサブリーダー経験や複数領域の技術力を踏まえると、平均を下回ったままでいる理由が見当たらないというのが、棚卸しをひと通り終えた時点での私の見立てでした。
年代を区切らないシステムエンジニア全体の平均年収は、2026年9月時点で518万円というデータもあり(求人ボックス 給料ナビ「システムエンジニアの仕事の平均年収」)、Aさんの480万円はこの全年代平均と比べても低い水準でした。年齢を問わない全体平均よりも自分の年代の平均を下回っている、という事実は、Aさんが漠然と抱いていた不安が的外れではなかったことの裏付けにもなりました。
この棚卸しの結果を市場相場と照らし合わせたところ、Aさんのスキルなら600万円台前半のレンジが十分に狙えることが分かりました。480万円という現職の年収は、Aさんの経験に見合った金額とは言えなかったのです。数字で裏付けを見せられたことで、Aさんの「50点くらい」という自己採点も、この段階で「もう少し上かもしれません」という言葉に変わっていました。
面接で実績を「数字」で語る練習
市場価値の把握と並行して取り組んだのが、面接での伝え方の練習です。Aさんは自分の成果を語ることに慣れておらず、「チームに貢献した」「売上に貢献した」というように、成果を控えめかつ曖昧に表現する傾向がありました。
そこで私が提案したのは、成果を数字に置き換えて話す練習でした。棚卸しシートに書き出した内容をもとに、曖昧な表現を一つずつ具体的な数字に言い換えていきました。実際にAさんと一緒に作り直した表現は、次のようなものです。
| 曖昧な表現 | 数字を使った表現 |
|---|---|
| チームに貢献した | 開発したシステムにより処理時間を30%短縮した |
| バグの改善に努めた | 月平均12件あった障害を3件まで減らした |
| 後輩の指導に取り組んだ | 3人の新人を教育し、うち2人を半年で独り立ちさせた |
| プロジェクトを支えた | 15人規模の開発チームでサブリーダーとして進行管理を担った |
| クラウド移行に関わった | 旧システムの仕様を読み解き、複数サーバーの段階的な移行手順を設計・主導した |
最初のうちは、Aさんも「そこまで具体的に言っていいのか」と戸惑っていました。「障害件数なんて、面接で言うようなことなんでしょうか」と何度も聞き返されたのを覚えています。ただ、面接官の立場から見れば、根拠のない「貢献した」という言葉より、数字の裏付けがある話のほうがはるかに説得力を持ちます。
クラウド移行の話も、最初は「上の指示で移行作業をやっただけです」という一言で終わっていました。私が「旧システムの仕様を理解していたのはAさんだけだったんですよね、それなら移行の設計自体もAさんが主導していたのでは」と聞き返すと、Aさんは少し考えてから「言われてみれば、手順書を書いたのも切り替えのタイミングを決めたのも自分でした」と話し方が変わっていきました。面接では「クラウド移行を担当しました」ではなく「レガシーシステムの仕様を把握した上で、段階的な移行手順を設計し、無停止での切り替えを実現した」という形で話せるように、一緒に言葉を組み立てていきました。
この言い換えは、実際の面接でも手応えがあったようです。最終的に内定を出した企業の面接官からは、「無停止での切り替えをどう設計したのか、具体的な工夫を聞かせてほしい」と踏み込んだ質問が続いたとAさんから聞きました。曖昧な表現のままだったら深掘りされずに終わっていたはずの話が、数字と手順を添えたことで、面接官の関心を引く材料に変わったということです。
練習の初回、Aさんに「後輩指導について話してください」とロールプレイで振ってみたところ、返ってきたのは「後輩の面倒を見ていました、皆さんが優秀だったので特に苦労はありませんでした」という一言だけでした。私が「教育した人数と、その後どうなったかまで聞かせてください」と重ねて質問すると、そこで初めて「3人担当して、2人は半年ほどで自分がいなくても仕事を回せるようになりました」という具体的な答えが出てきました。この「聞かれてようやく出てくる数字」を、聞かれる前から自分の言葉で話せるようにするのが、練習の狙いです。
3回ほどロールプレイを重ねるうちに、Aさんの話し方は目に見えて変わっていきました。「大変でした」で終わっていた話に、必ず数字の着地点が付くようになったのが一番の変化です。
転職理由の答え方も、同じように練習しました。当初のAさんは「今の会社に不満はないですが、成長したくて」という当たり障りのない言い方をしがちでしたが、これでは面接官の印象に残りません。そこで、「評価制度上、成果が昇給に反映されにくい環境だったため、実績が正当に評価される環境で働きたい」という形に言い換え、そのすぐ後に先ほどのクラウド移行や新人教育の実績を数字付きで続ける流れを作りました。転職理由と実績がセットで語れるようになったことで、面接官からの深掘りの質問にも詰まらずに答えられるようになったとAさんは話していました。
ポイント: 実績は「頑張った」ではなく「何がどれだけ変わったか」で語る。数字が思い出せない場合は、当時のプロジェクト管理ツールやチャットの履歴を見返すだけでも、具体的な表現が見つかることがあります。
620万円のオファーとその後
棚卸しと面接練習を終えたAさんは、約2か月かけて5社に応募し、そのうち3社の選考に進みました。最終的に550万円、590万円、620万円という3つのオファーを受け取っています。いずれも現職の480万円を上回る提示で、Aさんは条件面だけでなく担当業務の内容も比較した上で、620万円を提示した企業への転職を決断されました。現職の480万円から140万円のアップです。
決め手になったのは金額の高さだけではなかったといいます。590万円を提示した企業では、Aさんが強みとして語ったクラウド移行の経験を活かせる場面が限られていましたが、620万円を提示した企業では、まさに同じようなレガシーシステムの刷新プロジェクトが進行中で、Aさんの経験がそのまま活きる座組みでした。「金額は一番高くなくてもいいので、自分の経験が生きる環境を選びたい」というのが、Aさんが最終的に口にした基準でした。
先ほど紹介した参考値の647万円と比べると、620万円はまだ27万円ほど届いていない水準です。ただ、これは令和4年時点の古いデータを業界・地域を問わずならしたものであることを踏まえると、Aさんにとっては十分に納得のいく着地だったと言えます。
Aさんはオファー獲得後、「自分の市場価値をきちんと理解できたことが、一番の収穫だった」と話してくれました。年収が上がったこと以上に、根拠を持って自分の実績を説明できるようになったことへの手応えが大きかったようです。
面談の中でAさんが繰り返し口にしていたのは、「今まで、自分の経験がどこまで通用するのか分からないまま働いていた」という言葉でした。棚卸しを通じて自分の市場価値を数字で把握できたことが、今後のキャリアを考える上での判断材料にもなったといいます。転職から数か月が経った頃、Aさんから「新しい職場でも、成果を数字で振り返る癖がついたので評価がしやすくなったと上司に言われました」という報告をもらったのも、印象に残っている出来事です。
まとめ:年収は「なんとなく」ではなく、棚卸しで根拠を作る
Aさんのケースが示しているのは、年収の妥当性は感覚や噂話ではなく、自分のスキル・経験を具体的に棚卸しすることで初めて根拠を持って判断できるということです。50点だと思っていた自己評価は、体制表やチャットの履歴という具体的な記録を掘り起こしていくことで、少しずつ実態に近づいていきました。
これから自分の市場価値を確かめてみたい方は、まずAさんと一緒に取り組んだ次の3つを、自分の経験に当てはめて書き出してみてください。
市場価値を確かめるための棚卸しチェックリスト
- 直近1〜2年で関わったプロジェクトの規模(人数・期間)を、記憶ではなく資料やチャットの履歴で確認する
- 「当たり前にやってきたこと」の中に、他人に説明できる肩書きや役割が隠れていないか見直す
- 自分の年代・職種の平均年収データと照らし合わせ、今の年収がどのあたりに位置するか把握する
同じように「なんとなく自分の年収は低いのではないか」という不安を抱えている方は、まず友人の年収と比べる前に、自分自身の経験を市場相場に照らして棚卸しするところから始めてみてください。数字で語れる実績が一つ見つかるだけで、面接での説得力も、年収交渉の結果も大きく変わってきます。




