二つの内定通知書を並べて、年収が140万円も低い方に丸をつける——。そんな決断をした32歳のエンジニアの話を、私は今でもはっきり覚えています。
800名以上の転職支援をしてきた中でも、年収差100万円を超える内定を、あえて低い方で承諾したケースは片手で数えるほどしかありません。今回は、複数内定を年収以外の軸でどう比較し、Dさんがどんな意思決定プロセスを経て決断に至ったのか、そしてその後どうなったのかまで、実際のやり取りを交えてお伝えします。
今回は、Dさんが複数内定を比較する際に使った、次の4つの判断軸に沿ってご紹介します。
- 技術スタックの将来性(今後の市場価値にどう影響するか)
- マネジメント経験を積める見込みがあるか
- 裁量の大きさ(設計や意思決定にどこまで関われるか)
- 組織のフェーズ(大手グループかスタートアップか、成長段階はどこか)
目次
複数内定、年収140万円差で悩んだ32歳エンジニアの相談
相談者のDさんは、新卒で独立系SIerに入社して8年目、32歳のバックエンドエンジニアでした。現職では金融系の基幹システムの保守運用を担当し、直近3年はプロジェクトリーダーの補佐的なポジションも兼ねていたといいます。使用している技術はJavaとOracle DBが中心で、システム自体は10年以上前に構築されたものを、大きな作り替えのないまま保守し続けている状態でした。
転職を考え始めたきっかけは、「このまま同じ環境にいたら、5年後の自分の市場価値がどうなっているか想像できなくなった」という漠然とした焦りだったとDさんは話していました。現職の年収は610万円。金額そのものに強い不満があったわけではなく、技術的に伸びしろのない環境に居続けることへの危機感の方が強かったそうです。
転職活動を始めて2か月ほどで12社に応募し、書類選考を通過したのは5社、最終的に内定が出たのは2社でした。1社目は大手SIer系列の情報システム子会社で、年収680万円、業務内容は現職とほぼ同じ基幹システムの保守運用。マネジメント業務はなく、技術スタックも現行のJava環境がそのまま続く求人でした。
2社目はシリーズBの資金調達を終えたばかりのSaaS系スタートアップで、社員数は40名ほど。決済まわりのバックエンド開発を担当するポジションで、年収は540万円と1社目より140万円低い提示でしたが、技術スタックはGoとKubernetes、AWSを中心とした構成で、面談では将来的にチームのテックリードを任せたいという話も出ていました。
2社目からはストックオプションの付与も提示されていました。ただ、行使価格や発行数を聞くと、仮に上場までこぎ着けたとしても含み益は数百万円程度にとどまる見込みで、Dさん自身も「ここは正直、当てにできる金額ではないと思っています」と冷静に受け止めていました。私もこの点は判断材料としては参考程度に留め、額面の年収差を埋め合わせる材料には含めないという前提でDさんと話し合いました。
Dさんが最初に私に相談してきたときの一言は、今でもよく覚えています。「正直、680万円のオファーを断るなんて、家族に説明できる自信がありません」。子どもの教育費についても奥さんと話し始めていた時期で、年収を下げる選択肢は現実的に考えにくい、というのがDさんの最初の立ち位置でした。
年収以外で比較する4つの判断軸
複数内定を前にしたとき、多くの人がまず金額の大きさに目を奪われます。ですが、実際に転職者の意識を調べた調査を見ると、年収は「最重視される項目」とは限りません。エン・ジャパンが「ミドルの転職」を使う35歳以上のユーザー2,126名に行った調査では、転職の軸として最も多く挙がったのは「希望の仕事内容に従事できるか」で40%、「年収アップできるか」は17%にとどまり、23ポイントもの差がついています(出典:エン・ジャパン「ミドルの転職」実態調査)。32歳のDさんより上の世代の傾向ではありますが、金額より仕事の中身を見る人が多いという事実は参考になります。
一方でエンジニアに絞った調査を見ると、様相は少し変わります。LAPRAS HR Tech Labが2025年3月に行った調査(有効サンプル1,101)では、転職時に最も重視する点の1位は「年収」で24.7%でした。ただし2位の「働き方」が18.7%、3位の「やりたいことができるか」が14.1%、4位の「事業内容」が10.0%と続き、年収以外の項目を合わせると多数派になります(出典:LAPRAS「ITエンジニアが転職時に重視すること」)。年収は首位ですが、それだけが突出しているわけではありません。
私の肌感覚でも、エンジニアは年収を軽視しているわけではなく、技術力に直結する要素を年収と同じくらいの重みで見ている人が多い、という印象です。
Dさんのケースで実際に比較の軸として使ったのは、次の4つでした。
技術スタックの将来性
1社目のJava/Oracle環境は、今後10年使われ続ける可能性は高いものの、市場で「今から学びたい」と積極的に選ばれる技術ではありません。一方、2社目のGo/Kubernetes/AWSという構成は、求人市場でも引き合いの多い技術領域です。5年後に市場価値が伸びているのはどちらの技術スタックか、という視点で比べると、差は歴然としていました。
以前市場価値の棚卸しについて紹介した記事でも触れましたが、エンジニアの市場価値は年収の数字そのものより、担当してきた技術領域の需要によって大きく左右されます。Dさんの場合、Java保守の経験を8年積んでいても、それだけでは今後の希少性が上がりにくい、というのが私の見立てでした。
マネジメント経験の有無
1社目は既存システムの保守が中心で、部署の体制上マネジメント登用のポストがしばらく空く見込みがありませんでした。2社目はチームがまだ5人程度で、Dさんが入社すれば1年以内にテックリードとして開発の意思決定とメンバーの育成を任される可能性が高いという話が面談で出ていました。
Dさんはこの時点で、マネジメント経験を「いずれ必要になるものの、今すぐでなくてもいい」と考えていました。ただ、私が「40代でマネジメント未経験のまま転職市場に出る場合、選べる求人の幅がかなり狭くなる傾向があります」という話をすると、少し表情が変わったのを覚えています。
裁量の大きさ
1社目の業務は、既存の手順書に沿って保守・改修を行うスタイルが中心で、技術選定や設計の意思決定に関わる余地はほとんどありませんでした。2社目は逆に、インフラ構成からAPI設計まで、少人数のチームで意思決定を回していく必要がある環境です。
Dさんは面接で2社目の担当者から「入社してすぐ、決済APIの再設計を一緒に進めてほしい」と言われたそうです。この一言について、Dさんは「今の会社では8年いても、そこまで大きな設計判断を任されたことは一度もありません」と話していました。
組織のフェーズ
1社目は大手グループの一員で、意思決定には複数の承認プロセスを経る必要がある階層型の組織でした。Dさんは以前、開発サーバーの増強を提案した際、部長・本部長・情報システム部門の3段階の承認を経るのに3週間近くかかった経験があるそうです。2社目の面接でCTOに似た話を振ってみたところ、「基本は僕とDさんの2人で決めて、必要なら翌日には契約している」という返答があり、意思決定のスピードそのものが評価軸になり得るのだとDさんは気づいたといいます。
組織のフェーズが違えば、同じ「エンジニア」という肩書きでも、日々の仕事の中身はまったく別物になります。2社目はシリーズBの資金調達を終えたばかりで社員40名という規模感、1社目は大手グループの一員という規模感で、この差は面接での意思決定の速さにもそのまま表れていました。
4つの軸を並べてみると、次のような比較になります。
| 判断軸 | 1社目(大手グループ) | 2社目(スタートアップ) |
|---|---|---|
| 年収 | 680万円 | 540万円 |
| 技術スタック | Java/Oracle(既存維持) | Go/Kubernetes/AWS(需要増) |
| マネジメント経験 | 見込み薄い | 1年以内に可能性あり |
| 裁量 | 手順に沿った保守が中心 | 設計・意思決定に関与 |
| 組織フェーズ | 大手グループ、階層型 | シリーズB、少人数 |
ポイント: 年収以外の軸で比較すると、今のスキルの延長線上で測れる項目と、今後の伸びしろで測る項目が混在していることが分かります。数字で見える年収だけを比較すると、この「伸びしろ」の差が見落とされがちです。
なお、この表に入れなかった項目もあります。勤務地、残業時間、リモートワークの可否といった労働条件と、企業の財務・事業の安定性です。今回のDさんは技術と役割の差が大きかったので4軸に絞りましたが、通勤時間が倍になる、リモートがなくなるといった差が大きい方は、必ず表の行に加えてください。年収や裁量の差が霞むほど、毎日の負担に響くことがあるからです。
もう一つ、スタートアップが相手のときは、資金調達の時期と、手元資金であと何か月やっていけるかを面接やオファー面談で聞いておくべきだと私は考えています。直近の調達額、売上の推移、次の調達までの見通しあたりが聞きどころで、答えにくそうな会社は、それ自体が判断材料になります。オファー面談で聞くべき項目の一覧はオファー面談で確認すべき質問をまとめた記事に、スタートアップ特有の報酬の見方はストックオプションと年収ダウンの判断の記事にまとめています。
意思決定マトリックスに書き出し、1年後を想像してみた
4つの軸を整理した後、Dさんと一緒に取り組んだのが、それぞれの選択肢を選んだ場合の「1年後」を具体的に想像してみる作業でした。いわゆるプレモータム思考に近いやり方で、先に結果を想像しておくことで、判断の軸をはっきりさせる狙いがあります。
私が「1社目に入社して1年経った自分を想像してみてください」と聞くと、Dさんはしばらく黙った後、「たぶん、今と同じような会議で、同じようなシステムの障害対応をしている自分が見えます」と答えました。逆に2社目については、「1年後どうなっているか正直分かりませんが、少なくとも今とは違う技術を触っている自分は想像できます」という答えが返ってきました。
この「想像できる/できない」の差は、Dさんにとって大きな気づきだったようです。1社目は安定していて想像しやすい分、5年後・10年後の自分の姿もほぼ今の延長線上にしか描けません。2社目は不確実性が高い分、想像の幅そのものが広がる。Dさんはこの違いを、「安心して選べる方と、賭けてみたい方、という感覚に近いです」と表現していました。
あわせて、家計の面でも1年後を具体的に想像してもらいました。現職610万円から540万円へ70万円下がると、独身・扶養なしの単純な早見表では、月あたりの手取りは3.5〜4万円前後減る計算です。あくまで概算で、扶養家族やボーナスの有無で変わります(扶養があるDさんは、これよりもう少し小さくなります)。一方、1社目の680万円と比べた140万円差は、月にして7万円前後に相当します。これも概算です。
Dさんは家計簿アプリの支出履歴を見返し、外食と趣味の支出を月2万円ほど見直せる余地を確認しました。それだけで全額を埋められるわけではなく、月に1〜2万円ほどは可処分の余裕が減ります。それでも家計が回らなくなる水準ではないと判断できました。この作業を通じて、140万円という年収差の重みを、感覚ではなく生活の具体的なサイズに置き換えて捉え直すことができたのも、決断を後押しした要因の一つだったと思います。
内定への返事、保留期間でDさんがやったこと
比較の軸が整理できた後も、Dさんはすぐに答えを出したわけではありません。両社に対して、それぞれ1週間ほど返事を待ってもらえるよう依頼しました。以前引き止めのケースでも紹介した通り、保留の連絡自体は正直に伝える方が結果的に心証を損ねません。Dさんも「他社の選考状況も踏まえて、もう少しだけ検討させてほしい」と両社にそのまま伝えていました。
保留期間の目安は、2〜3日から1週間程度というのが一般的です(参考:マイナビ転職の内定後の解説、レバテックルーキーの解説)。Dさんの「1週間ほど」は上限に近い依頼でした。伝え方のコツは、内定を受けたらできるだけ早く、期間を日付で区切って連絡することです。あわせて「御社への入社意欲は変わらない」ことを添えると、印象が悪くなりにくくなります。
逆に、期限を曖昧にしたまま引き延ばすと、相手の印象が下がり、場合によっては内定が取り消されるリスクもあります。長く待ってもらうほど、相手は採用計画を立て直せなくなるからです。保留期間の具体的な使い方はスタートアップの選考スピードと保留の記事でも触れています。
あわせてDさんは、2社目に対して年収面の再交渉も一度試みています。「他社から680万円の提示を受けている」という事実を伝えた上で、「歩み寄れる余地はあるか」と尋ねたところ、担当者からは「入社時点でのベースは変えられないが、半年後の評価タイミングで見直す機会は作れる」という回答がありました。金額そのものは動きませんでしたが、評価の仕組みが具体的に示されたことも、Dさんにとっては判断材料の一つになりました。
この保留期間中、Dさんは家族との話し合いにも時間を使いました。奥さんに4つの判断軸をそのまま見せて説明したところ、最初は年収140万円の差に難色を示していたそうです。ただ、「5年後、10年後にどちらの方が良い状態になっていそうか」という話を重ねたところ、「それなら少し収入が下がっても、後で取り返せる方がいいのでは」という反応に変わっていったといいます。
最終的にDさんは、2社目のスタートアップに承諾の返事をしました。1社目には「大変魅力的な条件でしたが、技術的に挑戦したい領域が明確になったため」と伝え、角が立たない形で丁寧に断りを入れています。
辞退の連絡は、一般的には電話で採用担当者に直接伝え、そのあとメールで記録を残すのが基本とされています。始業直後や昼休み明けは避けるのが無難です。理由は細かく述べず、「検討の結果、今回は辞退させていただきます」とする例が多く、私も相談者にはそう案内しています。年収などの条件を理由にすると、話が交渉に移ってしまうためです。
年収を140万円下げて入社した後、Dさんのその後
入社から3か月ほど経った頃、Dさんから最初の近況報告がありました。Go言語のキャッチアップに苦労しながらも、決済APIの一部設計を任されるようになったとのことでした。「覚えることは多いですが、8年ぶりに新しい技術を勉強するのが単純に楽しいです」という言葉が印象に残っています。
入社から半年ほどの時点では、正直つまずいた時期もあったそうです。Kubernetesの運用でトラブルが重なり、休日出勤が続いた週もあったといいます。「一瞬、680万円の方を選んでいればよかったかもと思いました」とDさんは正直に振り返っていました。それでも辞めずに続けられたのは、CTOやメンバーが一緒に原因を切り分けてくれる環境だったからだと話しています。
入社から10か月ほど経った頃、チームの人数が7人に増え、Dさんは実際にテックリードとしてAPI設計とメンバーのレビューを任されるようになったという連絡が来ました。「毎日誰かに設計の相談をされる立場になるとは思っていませんでした」と、少し誇らしげに話していたのも覚えています。
入社から1年が経った時点で、Dさんは軽い気持ちで市場価値を確認してみたいと、私のところに再度相談に来ました。職務経歴書を一緒に整理してみると、Kubernetes環境での設計・運用経験とテックリードとしてのマネジメント経験が加わったことで、想定できる年収レンジは750万円前後まで上がっていました。これは、当初断った1社目のオファー額680万円を上回る水準です。
もちろん、これはあくまでDさんのケースでの結果です。スタートアップへの転職がすべてこのように上手くいくとは限りませんし、資金調達がうまくいかず事業自体が縮小するリスクも当然あります。私が担当した別の相談者の中には、同じようにスタートアップを選んだものの、1年経たずに人員整理の対象になり、想定していたキャリアが崩れてしまった方もいました。Dさんの場合は、技術選定やチーム体制について面接段階でかなり具体的に確認していたことが、結果的にリスクを見極める材料になっていたのだと思います。
逆に、年収を優先した方がいいケース
ここまで読むと「低い方を選ぶのが正解」に見えるかもしれませんが、私はそうは考えていません。Dさんは、年収を下げても家計が回ると確認できていたから、この判断ができました。
たとえば、住宅ローンや教育費で毎月の固定支出が大きく、手取りが減ると貯蓄を切り崩す状況なら、年収を優先する方が合理的です。スタートアップ側の資金調達の状況や売上の見通しが不透明で、事業リスクが高いと感じた場合も同じです。伸びしろは、会社が続いてこそ回収できます。
年収を優先した方がよい目安
- 手取りが減ると、毎月の収支が赤字になる
- 年収の低い側の会社で、資金調達や売上の見通しを確認できない
- 今の環境でも、身につけたい技術や役割を得られる見込みがある
年収が高い方を選ぶことは、逃げではありません。大事なのは、何を優先するかを家族も含めて言葉にしたうえで選ぶことです。
よくある質問
複数内定は何社まで持ってよく、どのくらい保留してよいですか。 社数に決まりはありませんが、比較しきれない数を抱えると判断が浅くなります。私が見てきた範囲では、実際に比較するのは2〜3社が現実的です。保留は2〜3日から1週間程度が目安で、長く待ってもらう場合は期限を日付で伝えてください。
年収が低い方を選んで後悔しませんか。 Dさんも半年ほどの時点では「680万円を選べばよかったか」と一瞬迷いました。後悔を減らすには、家計が回るかを数字で確認し、選ばなかった側の理由を言葉にしておくことです。判断軸が明確なら、つらい時期も踏ん張りやすくなります。
ストックオプションは年収の差を埋める材料になりますか。 私は参考程度に留めるべきだと考えています。Dさんの場合も行使価格と発行数を確認したところ、上場しても含み益は数百万円程度で、額面の年収差を埋める前提にはしませんでした。
まとめ、年収差の大きさより「伸びしろ」の差で判断する
複数の内定を前にすると、どうしても目の前の金額差に判断を引っ張られがちです。ですが、Dさんのケースが示しているのは、年収という一つの数字だけでは測れない要素——技術スタックの将来性、マネジメント経験の見込み、裁量の大きさ、組織のフェーズ——を並べてみることで、5年後・10年後の見え方がまったく変わってくるということです。
もし今、複数の内定を前に年収差で迷っている方がいたら、Dさんがやったように4つの軸で比較表を作り、それぞれを選んだ1年後の自分を具体的に想像してみてください。今の年収差より、5年後の伸びしろの差の方が大きいことに気づけるかもしれません。




