確定申告ソフトの無料体験版に、独立後の想定単価を打ち込んでみたら、期待していた手取り額より140万円近く少ない数字が返ってきた——SES企業に所属する40歳のエンジニアが、面談でその画面のスクリーンショットを見せてくれたことがあります。
私はIT・Web業界を中心に800名以上の転職支援に携わっていますが、SES正社員からフリーランスの業務委託へ転向したいという相談は、この数年で確実に増えています。ただし多くの人が最初に見ているのは、今の月給とフリーランス案件の単価を並べただけの単純な引き算です。今回は、SES正社員からフリーランスへ転向する際に単価と手取りの比較で見落とされがちな3つのポイントを、実際の試算をもとにお伝えします。
今回は、次の内容に沿ってご紹介します。
- 単価の高さだけで年収比較すると見誤る理由と、SES特有の商流が関わる部分
- 社会保険料の自己負担・稼働の空白期間・賞与や退職金の消失という3つの見落とし
- 正社員時代の単価を基準に、フリーランス転向後の実質手取りを試算する手順
目次
SESフリーランス転向、単価と手取りの比較で最初につまずくところ
SES企業に正社員として所属し、客先常駐で働いているエンジニアがフリーランスへの転向を考え始めるきっかけは、たいてい単価の話です。所属会社の営業から契約更新のタイミングで「そろそろ月単価は80万円台まで来ていますよ」と聞かされたり、フリーランスエージェントの案件一覧を眺めていて、自分の経験年数なら月80万円台の案件に手が届きそうだと気づいたり、入り口はさまざまです。
先ほどのNさん(40歳・経験15年、社内システム開発のエンジニア)も、そうした一人でした。独立系のSES企業に所属し、物流会社向けの基幹システム保守で客先常駐を8年近く続けていて、正社員としての月給は38万円、年2回の賞与を合わせた額面年収は518万円ほどでした。フリーランスエージェント経由で紹介された案件は月単価84万円で、単純に12倍すれば年間1,008万円です。額面だけを見れば、ほぼ倍近い数字に見えます。
月単価84万円という水準そのものは、経験15年のシステムエンジニアであれば極端に高い提示ではありません。フリーランスエンジニアの職種別単価相場を集計した調査でも、システムエンジニアの平均単価は月72万円、インフラエンジニアは68万円が目安とされています(参考:セラク「【2026年版】エンジニアの単価相場と年収目安を徹底解説」)。Nさんの経験年数と保守実績を踏まえれば、むしろ相場に近い妥当な提示だったと言えます。だからこそ問題は単価の正当性ではなく、その先にある手取りの中身をどう確認するかにあります。
この「ほぼ倍」という印象が、比較を止めてしまう最初の落とし穴です。518万円という数字には、会社が別枠で負担している社会保険料や、毎年当たり前のように振り込まれていた賞与、勤続年数に応じて積み上がる退職金が、すでに織り込まれた状態になっています。フリーランスの84万円という単価は、そうした後払いの報酬を一切含まない、いわば「素の対価」です。84万円は素の対価、518万円は後払い分まで含んだ総額——この違いを揃えて初めて、引き算が意味を持ちます。
SES業界特有の事情も、この比較をさらにややこしくしています。正社員時代の月給は、会社が客先に請求しているエンド単価から一定の還元率を差し引いた金額でしかありません。Nさんが退職前に開示してもらった書類によると、会社が客先に請求していたエンド単価は月76万円で、Nさんの額面月収(賞与を月割りした金額)は約43万円でした。
乖離率にすると56%台です。SESの多重下請け構造と案件ガチャについて解説した記事で紹介した基準に照らせば、警戒ラインの50%は超えているものの二次請けの下限(65%)にはまだ届かない、三次請けと二次請けの間くらいの水準になります。ただ、この「単価と手取りの差」という発想そのものは、フリーランスに転向した後も形を変えて付きまとうことになります。
見落とし1、社会保険料の自己負担——「会社が払っていた分」がまるごと乗る
正社員の給与明細に載っている社会保険料は、実際にかかっている金額の半分でしかありません。厚生年金保険料率18.3%も健康保険料率(協会けんぽ・東京都、令和8年度9.85%)も労使折半が原則で、残り半分を会社が明細に出さない形で負担しているからです。Nさんの標準報酬月額はおおよそ40万円、40歳になると介護保険料1.62%も上乗せされるため、本人負担分(それぞれの半分)を合計すると月あたり約6万円、年間で71万円ほどになります(全国健康保険協会「令和8年度の保険料率」)。会社側も同じくらいの71万円を、Nさんの目に触れない場所で負担していた計算です。
フリーランスになると、この構造が一変します。国民年金保険料は令和8年度で月額17,920円、年額215,040円です(日本年金機構「国民年金保険料」)。加えて国民健康保険料を自分で払う必要があり、料率は自治体ごとに異なりますが、事業所得が700万円台に乗るケースでは年間80万〜100万円台に達することも珍しくありません。Nさんの場合、居住地の試算では年間88万円ほどになる見込みでした。
合計すると、フリーランス転向後の自己負担はおよそ109万円。正社員時代の自己負担(71万円)より38万円ほど重くなるだけでなく、会社が別枠で負担していた71万円がまるごと消えるという二重の変化が起きています。しかも国民健康保険には被扶養者制度がないため、配偶者や子どもがいる世帯ではこの負担がさらに膨らみます。Nさんは独身でしたが、同じ相談を配偶者ありのケースで受けたときは、扶養に入っていた配偶者分の国民健康保険料・国民年金保険料が新たに年間30万円ほど上乗せになり、独身のケースより見落としの規模が一段大きくなっていました。
積み上がる将来の年金の中身も変わります。厚生年金に加入していれば基礎年金に報酬比例部分が上乗せされますが、国民年金だけになると基礎年金のみです。払っている保険料の感覚は正社員時代とさほど変わらなくても、将来受け取る年金の設計図そのものが基礎年金一本に縮んでしまう、というのが盲点になりやすい部分です。この差を自分で埋める方法として国民年金基金や付加保険料への加入がありますが、いずれも任意加入のため、独立時にその存在自体を知らないまま数年を過ごしてしまう相談者を何人も見てきました。
見落とし2、稼働の空白期間——SESの商流がフリーランスでも形を変えて残る
単価84万円を12倍して1,008万円と計算するのは、契約が1年間切れ目なく続くことが前提の数字です。実際にはフリーランスの契約は3〜4ヶ月更新型であることが多く、契約と契約の間に案件探しの期間が挟まることがあります。Nさんが最初に提示された契約も4ヶ月更新で、営業担当からは「更新は基本的に続く見込みですが、絶対ではありません」という説明でした。
過去の実績を持つフリーランスエンジニアでも、年間の稼働率が100%になる年はそう多くありません。仮に稼働率を88%(年10.5ヶ月相当)で見積もると、Nさんの年収は約882万円まで下がります。景気の波や本人の体調によって稼働率が75%(9ヶ月)程度まで落ち込む年があれば、年収は756万円まで下がる可能性もあります。1,008万円というのは、契約が1年間まるまる途切れなかった場合にしか出ない上限値にすぎません。
稼働の波を年収に落とし込む3つの手順
- 単価×12ヶ月×想定稼働率(初年度は保守的に80〜88%程度で見積もる)を基準値にする
- 基準値とは別に、契約が1本切れて次が決まるまでの最悪シナリオ(稼働率70%台)も並べておく
- 2つの数字の間に、正社員時代の額面年収(ほぼ確定額)を並べて位置関係を確認する
ここでSES特有の商流の発想が、もう一段階効いてきます。フリーランスエージェント経由の契約は、契約書上は個人事業主と発注元企業の準委任契約に見えても、実際には発注元企業がさらに上流の元請けから仕事を受けている、という構造になっていることが少なくありません。Nさんが提示された84万円という単価も、契約書に記載された「委託金額」であって、その先にどんな商流が連なっているかまでは開示されていませんでした。
正社員時代のSES勤務なら、エンド単価と自分の額面の差を「乖離率」として計算し、契約更新のたびに営業へ交渉材料にできます。フリーランスになるとこの乖離率という発想そのものが失われがちですが、実際には同じ問題が形を変えて残っています。契約更新のたびに単価が据え置かれる、あるいは「予算の都合で」と一方的に減額を打診されるケースは、フリーランス側にも普通に起こります。単価が高いことと、その単価が商流の中で正当な水準であることは別の話だという意識を持てるかどうかで、更新交渉の粘り方が変わってきます。
Nさんの場合、契約前に発注元へ「この契約は御社が直接エンドユーザーと契約している案件ですか」と確認したところ、実際には発注元自体が別の受託開発会社から案件を回してもらっている立場だと分かりました。契約自体は続けましたが、更新のたびに市場相場を自分で調べ直し、単価の妥当性を確認する習慣を持つようになったといいます。
商流を見分けるための質問は、実はSES正社員時代に営業へ投げていた質問とほとんど同じです。「この案件は何社目の契約になりますか」「更新の判断は御社単独ですか、それとも上流の意向が入りますか」という2点を契約前に聞いてみて、答えが曖昧なまま流されるようであれば、その曖昧さ自体を商流の下流にいるサインとして受け止めた方がいいというのが、私がSES業界の案件ガチャを見てきた実感とも重なる部分です。
似たような場面は、SES客先常駐からそのまま客先の正社員に登用されるケースでも起きます。単価をすでに客先が把握している状態での年収交渉の進め方は別の記事でまとめましたが、フリーランスの業務委託契約でも、発注元が単価の背景をどこまで把握しているか、逆に自分がどこまで発注元の背景を把握できているかによって、更新時の交渉の組み立て方は変わってきます。
見落とし3、賞与・退職金の消失——単価に含まれていない後払いの報酬
Nさんの正社員時代の額面年収518万円には、年2回の賞与62万円が含まれていました。フリーランスの契約には賞与という概念自体がなく、単価84万円がそのまま毎月の対価のすべてです。単価に月割りの賞与分が上乗せされているように見えて、実際には賞与相当額を含めた数字なのか、それとも本当に純粋な労働対価だけなのかは、契約前に確認しないと分からない部分です。
退職金も同様です。Nさんの所属していたSES企業には勤続年数に応じた退職金制度があり、15年勤続の時点で受け取れる目安は150万円ほどでした。フリーランスにはこの仕組みがまるごと存在しないため、退職金に相当する分は自分でゼロから積み上げていく必要があります。小規模企業共済やiDeCoを使えば掛金が全額所得控除になり、退職金の代替として機能しますが、これは「自動的に積み上がる」ものではなく、自分で毎月手続きして積み立てて初めて意味を持つ制度です。
有給休暇の扱いも変わります。Nさんは正社員時代、年間14日の有給を消化していました。単価84万円を稼働日数21日で割ると1日あたり4万円ですから、有給14日分は年間56万円ほどの「休んでも減らない収入」だったことになります。フリーランスになれば、丸1週間寝込むだけでその週の日当がまるごと消える計算になります。
体調不良が長引いたときの備えにも差があります。正社員なら健康保険の傷病手当金で一定期間は収入が補填されますが、フリーランスが加入する国民健康保険には同じ仕組みを持つ自治体はほとんどありません。賞与・退職金・有給・傷病手当金、この4つを合わせて自分で作り直す覚悟がいるというのが、独立を考える相談者に必ず伝えていることです。月々の単価表示には、この4つの値札がついていません。
単価と手取りの比較にもう一段、税金の視点を足しておく
社会保険料・稼働リスク・賞与や退職金という3つは、単価と手取りの比較で特に見落とされやすいポイントですが、税金の変化も無視できません。正社員の所得税は、給与所得控除(概算の必要経費に相当する控除)を差し引いた金額に累進課税がかかります。フリーランスになると給与所得控除は使えなくなる代わりに、青色申告を選べば最大65万円の青色申告特別控除に加えて、通信費・機材費・自宅家賃の按分といった必要経費を計上できるようになります。Nさんの場合、仕事専用にした自宅の一室の家賃を3割ほど経費計上できることが分かり、課税所得を圧縮する余地は正社員時代よりむしろ広がりました。
個人事業税も新たに発生します。多くの業種で事業所得から290万円の事業主控除を差し引いた額に5%が課税され、Nさんの見込み所得であれば年間20万円台の負担になる計算でした。
もっとも実務で相談者を悩ませるのは、住民税のタイミングのずれです。住民税は前年の所得をもとに翌年課税される仕組みのため、独立1年目の住民税は正社員時代の給与に対してかかります。手元資金がまだ薄い独立直後の時期に、前年の高い給与を基準にした住民税の納付書が普通徴収で届くというのは、SES正社員からの転向者に共通して起きやすい資金繰りの罠です。独立前に、前年の年収から翌年の住民税額をざっくり試算し、納付分を別枠で確保しておくことを勧めています。
実質手取りの比較シート、単価84万円と正社員年収518万円を並べる
ここまでの3つの見落とし、社会保険料・稼働の空白期間・賞与や退職金を、Nさんの正社員時代(額面年収518万円)とフリーランス転向後(月単価84万円)で並べてみます。
| 項目 | 正社員時代(額面年収518万円) | フリーランス転向後(月単価84万円) |
|---|---|---|
| 額面ベースの年収 | 518万円 | 1,008万円(84万円×12ヶ月) |
| 稼働率を織り込んだ実質年収 | 518万円(ほぼ確定) | 756万〜882万円(稼働率75〜88%で変動) |
| 社会保険料の自己負担(年間概算) | 約71万円 | 約109万円(国民年金21.5万円+国民健康保険88万円) |
| 会社が別途負担する保険料 | 約71万円(本人には見えない上乗せ) | 0円 |
| 賞与(年間) | 62万円 | 0円 |
| 退職金(勤続15年時点の目安) | 150万円 | 0円 |
| 有給休暇の金銭価値(年間目安) | 約56万円(14日想定) | 0円 |
額面だけを見れば490万円ものアップに見えますが、稼働率を織り込むと238万〜364万円まで幅が縮み、そこから社会保険料の負担増(会社負担消滅分を含めて実質110万円前後)、賞与・退職金・有給という後払いの報酬(合計268万円ほど)を差し引くと、実質的なプラスは思っていたよりずっと小さいというのが、Nさんと一緒に数字を並べ直したときの結論でした。
正社員時代のNさんは、エンド単価76万円に対して額面月収43万円という乖離率56%台で働いていました。フリーランスになった今の単価84万円も、発注元の先にもう一段商流があると分かっている以上、同じような乖離が形を変えて残っている可能性があります。額面の伸びに気を取られがちですが、乖離率という物差しを手放さずに持ち続けられるかどうかで、数年後の交渉力は大きく変わってくると私は考えています。
この比較シートの数字はあくまでNさんのケースです。自分の単価・稼働実績に置き換えて計算し直して初めて、意味のある比較になります。
契約前に自分のケースへ引き直したい3つのチェック項目
- 提示された単価に、想定稼働率(初年度は保守的に)を掛けた実質年収を出す
- 現在の給与明細から本人負担の社会保険料を確認し、国民年金・国民健康保険の見込み額と比較する
- 賞与・退職金・有給の金銭価値を年収換算し、単価にそれらが含まれているかを発注元に確認する
独立の前に確認しておきたい、契約とお金の3つの手続き
数字の比較と並行して、独立前に済ませておくべき実務的な確認もいくつかあります。1つ目は、契約書に記載された「委託金額」が源泉徴収の対象かどうかです。個人事業主への業務委託でも、原稿料や講演料と同じ扱いで10.21%が源泉徴収されるケースと、消費税分を別建てで請求する形になるケースがあり、契約書の表記だけでは分かりにくいことがあります。
源泉徴収がある契約では、単価84万円に対して毎月8万5千円ほどが差し引かれた金額しか入金されないため、請求額どおりに入金されると思い込んでいると資金繰りの見込みがずれます。源泉徴収された分は確定申告で精算され、払いすぎていれば還付されますが、それまでの数ヶ月は手元の資金が細くなることを見込んでおく必要があります。
青色申告を使う場合は、開業から2ヶ月以内に「青色申告承認申請書」を税務署に提出する必要がある点も見落とされがちです。提出が遅れると初年度は白色申告扱いになり、65万円の特別控除を受けられなくなります。Nさんも独立初月は業務の引き継ぎで慌ただしく、この提出期限をあやうく過ぎるところでした。
2つ目は、2024年11月に施行されたフリーランス新法(特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律)の内容です。業務内容・報酬額・支払期日を書面またはメールで明示する義務、給付を受領した日から60日以内に報酬を支払う義務、契約を打ち切る場合の30日前予告といった発注者側のルールが整理されました。Nさんの契約書にも支払期日が明記されており、以前よりは条件が可視化されやすくなった実感があるといいます。ただ、これは最低限のルールが整っただけで、単価の妥当性や更新の可否まで保証するものではありません。契約前に商流を自分で確認する姿勢は、新法があってもなお必要です。
3つ目は、退職と契約開始の間にできる空白期間の扱いです。SES企業を退職してから業務委託契約が始まるまでに1〜2ヶ月の空きがあると、その間は国民健康保険・国民年金への切り替え手続きが必要になり、任意継続被保険者制度(退職後も一定期間、以前の健康保険を継続できる制度)を使うかどうかの判断も出てきます。任意継続を選ぶと保険料は全額自己負担になりますが、それでも国民健康保険より安く収まる自治体もあるため、退職前に両方の見込み額を試算して比べておくと選びやすくなります。手元の生活防衛資金が3〜4ヶ月分に届いてから退職日を決める、というくらい慎重に動いてちょうどいいと相談者には伝えています。
ポイント: 独立前に「発注元がどこまでの商流の下流にいるか」を確認する習慣は、正社員のSES時代に単価とエンド単価の乖離を気にしていた人ほど自然に持てます。逆に、正社員時代に自分の単価を一度も意識してこなかった人ほど、フリーランスになってからも単価の妥当性を確認しないまま契約を更新し続けてしまう傾向があります。
相談事例、契約直前に試算をやり直したNさんのその後
Nさんが最初に相談に来たのは、フリーランスエージェントから提示された契約書に押印する3日前のことでした。確定申告ソフトの体験版に単価84万円と想定稼働月数を打ち込んでみたところ、手元に残る金額が思っていたより140万円近く少ない数字で表示され、そのスクリーンショットを見せながら「この計算、合っていますか」と聞かれたのが最初のやり取りです。
一緒に数字を洗い直してみると、ソフトが弾いた金額は税金と社会保険料をやや保守的に見積もったもので、実際には130万円程度の差に収まりそうだと分かりました。それでも、額面の「ほぼ倍」という印象からはかなり後退した数字です。Nさんはそこで契約自体を白紙に戻すのではなく、条件を調整する方向に舵を切りました。
具体的には、発注元との契約更新サイクルを4ヶ月から6ヶ月に延ばしてもらうよう交渉し、更新の見通しが立てやすい形に変えました。あわせて小規模企業共済への加入手続きを契約開始と同時に進め、退職金がなくなる分の積み立てを最初の月から始めています。生活防衛資金についても、当初は2ヶ月分しか用意していなかったものを、独立の時期を1ヶ月ずらしてでも4ヶ月分まで積み増しました。
独立そのものを取りやめる相談者もいますが、Nさんは「数字を正確に把握したうえでなら、多少手取りの伸びが小さくても独立する価値はある」と判断したケースです。単価の高さに飛びつくかどうかではなく、見落としを埋めたうえでなお納得できるかどうかを基準に決めたことが、契約後の後悔を防いだ一番のポイントだったと私は見ています。
独立から半年ほど経った頃、Nさんから近況の連絡がありました。契約更新は当初の見込みどおり6ヶ月周期で継続されており、初年度に見込んでいた稼働の空白は今のところ発生していないとのことでした。それでも「思っていたほど手取りが跳ね上がった実感はない」と話していたのが印象的で、独立前に数字を洗い直しておいたからこそ、その実感のズレに動揺せずに済んでいるようでした。
よくある疑問に答えます
Q. 法人化(マイクロ法人の設立)すれば、社会保険料の負担は軽くなりますか。
役員報酬の設定次第では、個人事業主として国民健康保険・国民年金を払うより、法人の厚生年金・健康保険に加入した方が社会保険料の総額を抑えられる場合があります。ただし法人設立・維持のコストや税務申告の手間が新たに発生するため、単価や所得の水準が一定のライン(目安として課税所得800万円台以降)を超えてから検討する人が多い印象です。独立初年度からいきなり法人化を前提にする必要はありません。
Q. SES企業に所属したまま、副業でフリーランス案件を受けることはできますか。
所属するSES企業の就業規則次第です。客先常駐の契約には守秘義務や競業避止に関する条項が含まれていることが多く、同業種の業務委託を無断で受けると契約違反になるリスクがあります。独立を検討する段階から、まずは就業規則と契約書の該当条項を確認しておくことをお勧めします。
Q. 傷病手当金がない代わりに、フリーランス向けの所得補償はありますか。
フリーランス向けの民間所得補償保険や、フリーランス協会・IT系の職能団体が提供する共済制度があります。保険料は月数千円程度からありますが、補償される金額や支払開始までの待機期間は商品ごとに差が大きいため、独立前に複数の商品を比較しておくと、体調を崩したときの備えとして機能します。
Q. フリーランス転向後、また正社員に戻ることはできますか。
十分可能です。フリーランスエンジニアが正社員に戻る際の年収比較で見落とされがちなポイントは、今回とちょうど逆方向の話として以前の記事でまとめています。往復のどちらの方向でも、単価や年収の額面だけで比較しないという考え方は共通しています。
まとめ、単価の高さより「乖離率」を疑う視点を持ち続ける
SES正社員からフリーランスへ転向する際、単価と月給の引き算だけで判断すると、社会保険料の自己負担・稼働の空白期間・賞与や退職金の消失という3つの見落としが期待値を押し上げたままにしてしまいます。Nさんのケースで言えば、490万円のアップに見えていた額面が、実質ベースで洗い直すとかなり縮んだのが実際のところでした。
SES業界で単価とエンド単価の乖離を気にしていた人ほど、フリーランスに転向したあとも単価の妥当性を自分で疑ってかかる習慣を続けられます。正社員時代に培った商流を見る目は、独立後も無駄になりませんというのが、この記事で一番伝えたかったことです。乖離率という物差しを手放さずに独立できるかどうかで、契約更新のたびに一喜一憂するだけの数年になるか、自分で交渉の主導権を握れる数年になるかが分かれてきます。
フリーランスエージェントの案件一覧は単価の高さを前面に押し出す作りになっていて、それ自体は営業として自然なことですが、そこに載っている数字がそのまま懐に入るわけではありません。社会保険料・稼働の空白・賞与や退職金という3つの見落としを自分の実績値で埋め終えたとき、額面の差は最初に見た印象とはかなり違う形で見えてくるはずです。数字の比較と、独立前に済ませておくべき実務、その両方を整えたうえで契約書に判を押してもらえればと思います。




